2015年9月17日木曜日

国会前で雨にうたれる人々、中で粛々と決定する人々

 先日のブログで、私はデモに参加する人々に何か違和感を感じると述べました。しかし、昨日今日の雨の中、ずっと国会前で頑張っている人たちを見ていたら、違和感なんて失礼なことだと反省しました。
 
 私も一度だけですが地元のデモに参加したことがあったのですが、行ってみると労組関係の団体が主催で、私のような個人参加の者は身の置き場にちょっと困って居心地が悪く、デモの文言も半分は労働者の権利を主張するものだったので「、なんだかな~」と思いながらの参加だったのです。
 
 しかし、国会前や各地で声を上げている人々のインタビューなどを聞いていると、個人個人の考えで来ている人が多く、今日夕方に参院特別委員会で強行採決された後の今現在も雨の中多くの方が、「これからが頑張りどき」「たとえ国会で法案が成立してもやめません」と答えているのを聞いていると、成立してしまうとだんだん忘れられてしまうのでは、という私の一抹の不安も取り越し苦労かもと思えてきます。どうかマスコミも忘れないで取り上げ続けてほしいものです。

 一方、国会の中ではそんな国民の声が全く届いていないかのような強行採決。国会議員は何のために存在しているのでしょうか?国民の声を国政に届けるという民主主義の使者ではないのでしょうか?決して権力者ではないはずなのです。傲慢以外の何物でもない。もはや立憲主義・民主主義は崩壊してしまっている・・。

 一部の独裁者を囲んで形成されつつある軍産複合体。先日も経団連が「国家戦略として武器輸出を推進すべきと」という提言を出している。そしてその周辺で甘い汁にあやかろうとする人たち。自民党の中にも内心は反対の人も一定数いるはずだ。なのに自己利益・保身が優先してしまう。国民の信託という使命を負った国会議員であるとという自覚、一人の人間としての良心、それらをこうも簡単に捨てられるものなのか・・・絶望という言葉しか浮かびません。

明日国会で成立するのか・・その公算が多きいようです。何とか止められないものか・・。この愚かな決定は、将来自身が想像していなかった事態に直面して初めて間違いだったと気づくのだろう。でも、その時にはもう遅いのですよ。想像力の欠如した人たちよ。

 

2015年9月15日火曜日

いよいよ採決?安保法案

 前回から5か月もたってしまいました。その間、安保法案が衆議院で強行採決され、そして今週中にも参議院でも採決すると与党自民党は言っています。
 思い返せば、昨年6月?に集団的自衛権容認の閣議決定がなされ、そのころ危機感を持っていた私は、民主党代表の岡田氏が地元で説明会をするというので、初めてそういう場へ行ってみたのです。その頃は民主党は今のようにはっきりと反対の姿勢を取っておらず、その説明会が終始集団的自衛権の内容説明であったので、私は「今日ここに来られている方ほとんどが思っていらっしゃると思うのですが、民主党として集団的自衛権には賛成なのですが?反対なのですか?」と質問をしました。明確な答えは得られませんでした。周りの年配の男性の方々(来ているのは大多数が年配の男性)に「良い質問をしましたね。」などと褒めていただきましたが、代表の答えに何とも言えぬ空しさを覚えながら帰りました。

 そして年末、安保問題を後ろに隠した消費税選挙で圧勝した自民党は露骨にマスコミを圧力をかけ、情けないことにマスコミも妙に弱腰になっていました。私などには到底わかりませんが、そういう圧力ってどれくらい怖いものなんでしょう・・・?春ごろはなんだか真っ向から反対するのがタブーのような感じさえありました。

 それが6月の憲法調査委員会?で、招致された憲法学者がこぞって「違憲だ」と発言し、マスコミがそれを大きく取り上げ、その時から急に風向きが変わったのです。昨日まで古館さんの質問になんとも回りくどく答えになっていないコメントを述べていた新進気鋭の憲法学者さんもその時を境にはっきりと「違憲」と言うようになりました。まあ心の中はずっとそう思っていたのでしょうが、それまでは言いにくい何かがあったのでしょうか?やはり。

 そこからマスコミも「違憲」「違憲」の大合唱。各地でデモも拡大していきSEALDsという若者の団体も出てきて注目を集めています。ようやく年配の人たちだけでなく、女性も、若者も、国民の多くが気付き、行動を起こし始めた!

 しかし・・・私は何か違和感を覚えるのです。これも日本人特有の「空気」を読んで「多数に付く」だとしたら、いやだなあ・・と。これでもし安保法案が今国会中に成立しないのなら、それでも「まずはよかった」と私は思います。だって私一人の力で阻止なんかできないのだし。

 逆に予定通り今週、法案が通ってしまったら・・・もちろん通ってすぐに集団的自衛権を行使するような事態はやってこないだろうから、何も起こらない。するとだんだん忘れられてしまうんですよね。マスコミが騒ぎ続けない限り、すぐ人の関心は新しいほうに向いてしまう。今でいえば、マイナンバーでしょうか。これもこの問題だけ取り上げて書きたいくらいの大問題です。究極、安保法案の問題とも関係しているので。

 安保法案に賛成の人たちは「抑止力」「中国の脅威」を強調し、自分たちの考えが現実的であると主張します。そう騒ぎ立てることこそが隣国を刺激しているのに、です。祖父の教えを忠実に実現しようという安倍総理を陰で操る、つまりそれでうまい汁を吸える一部の政財界の人たちにしてみれば、本気で安保強化が抑止力になると思っている人を、おめでたいと思っているかもしれません。日本版軍産複合体・・・これこそが彼らの真の目的なのだから。

 彼らは軍拡をして、場合によっては海外で戦争を手伝う程度を想定しているのかもしれません。現地で危険にさらされるのは自衛隊員(そのころには国防軍になっているかもしれません)。人が足りなくなって徴兵制にすることなど、安保法案が通るくらいならば容易いことでしょう。解釈論で言えば「苦役にはあたらない」と言い出す。あるいはすでに憲法改正に手を付けているかもしれません。世界を見れば一見平和に映る国が実は徴兵制をとっていて、一定期間兵役義務を課しているところは結構あるのです。

 すべては繋がっているように思えます。格差問題・少子化問題・大学入試改革・国立大の文系廃止問題・・・もちろんすでに始まっている原発再稼働・特定機密保護法や、これから始まるマイナンバー・TPP・・・。負の部分が回ってくるのは私たちのような普通の国民なのです。
 
 始まるときは静かに、少しだけ、ひっそりと始まるのです。たった5度の角度を間違って歩み始めてしまったら・・・気が付いた時には全然違う所へ来てしまっていた、、、とならないように。気が付いたら戦前みたいになっていた、とならないように。「ニッポンを取り戻す!」というあの滑舌の悪いコマーシャルが脳裏をよぎります。いつの時代に戻ろうとしているのですか?

2015年4月5日日曜日

考えることの大切さ②

 ここ数か月、公私にバタバタとしておりまして、すっかりブログ更新を怠ってしまいました。
 さて、前回に引き続き「考えることの大切さ」について個人的な意見を書きたいと思います。


 ここ数日、朝日テレビの報道ステーションの古賀さん問題でマスコミがざわついでいるようです。古賀さんの生放送を利用したあのやり方に非難がかなりあるようですが、古賀さんとしてはあそこまやって国民に伝えなければ、真実が国民に明かされないままじわじわとおかしな方向に行ってしまうことに、危機感と憤りを感じての行動であったと私は感じました。


 菅官房長官は圧力に関し完全否定、事実無根といい放ち、それにさらに突っ込む記者もいない。案の定、翌週からの報道ステーションのコメンテーターはがらりと様変わりしていました。恵村さんというほとんど毎日コメンテーターを務めていた方も、いなくなっていました。彼は言い方がソフトなだけで、ほぼ古賀さんと似た意見をお持ちの方とみていましたので、やはり、という感想です。


 このように今まで骨太に政府に対して意見してきたテレビ朝日までが、この言論統制に屈してしまった。いよいよ恐ろしい時代になりつつあることを、国民のどれだけの人が気付いているでしょうか?一昨年、NHKの籾井会長が指名された時点で、その兆しは十分あったのですが。NHKといえばやはりこの春の改編で9時のニュースの大越キャスターが退くに至りました。残念です。


 
 戦前戦中戦後にわたり国会議員を務めた牧野良三が終戦直後に友人に送った手紙が発見されたと以前中日新聞で読みました(2014/8/10)
一部記事を抜粋します。


『太平洋戦争に突入する先駆けともなった三八(昭和十三)年、国家総動員法案が上程された国会で、牧野は政府に対して「危険至極な立法」と指摘し「立法の形式を擬装して憲法を蹂躙(じゅうりん)するものである」などと、厳しくただした。

 生前の公での発言や、手帳に残したメモをもとに後世、まとめられた本『牧野良三』(六二年発行)を読み進めると、このころを振り返る興味深い章がある。反軍演説をするたびに繰り返された世間の反応を記したくだりだ。

 「二、三日の間は、新聞記者や友人知己が盛んに訪ねてくる、喜びの電報がくる、手紙がくる、大変な人気者になり、英雄になるわけだ。ところが警察官が来て三、四日もすると、もう駄目だ、パッタリ淋しくなってしまう。そうして五、六日も経つと、打って変わって私の除名運動がひそひそと相談される」


 「これはどういうことかというと、国民は、心の底では軍部の専横を苦々しく思っているのだけれども、一寸(ちょっと)圧迫が加わって来ると、皆逃げ腰になり、次には迎合を始め、しまいには軍部勢力に便乗して何かうまい汁にありつこうとする。まことになさけない有り様だが、それが当時の時代風潮で、そういう気分が充満していたということなんだ」(同)』


 牧野氏自身、結局は戦争を止めることはできず、自分の無力さを悔いての手紙だったのでしょう。


 まさに今、このようなことが始まっていることにどれだけの人が気付いているだろうか。あるいは気づかないふりをしているのだろうか?
 安倍政権が発足して以来、政府が進めている、または既に施行されている数々の法案がどんなに恐ろしいことにつながっているか、アベノミクスの恩恵と自分が関係ないように、それらのことも自分とは関係ないと思っているのか?
そうだとしたら、大きな間違いである。そういう恐ろしい付けが回ってくるのは普通の国民なのである。当の政府の関係者や、早くから結託している大企業などには負の部分は回ってこない。


 覇権国家、列強・・・・「我が軍」と失言してしまっている首相の頭の中がすでにそうなっているから、つい口をついてでてくるのだ。まさか、と笑う人たちも多いと思いますが、要は、人間の生まれ育った環境で長年培われてきた個人的な思想・信条というものを無理やりで実現してしまおうということなのである。おそらくそれだけなのだ。そんなものに国民が戦後70年守り続けた平和を奪われようとしているのです。


 80代、90代の戦争を経験している人はみなさん口をそろえて危機感を持っていらっしゃいます。私たちは戦争を体験していませんが、今外国のそこかしこで繰り広げられている悲惨な事態に想いをはせ、考えてみる必要があるのではないでしょうか?想像力です。


 特に考えていただきたいのは、若者です。本当に他人事と考えている人が多い。若者の正社員がどんどん少なくなり派遣やアルバイトが大きな割合を占めています。そんな人たちも「しょうがない」と言うだけで、自分の考えをしっかり持っている人は本当に少ない。60年代の学生運動を肯定するつもりはありませんが、そのように国や社会に対して
憤慨し、語り合うような若者がどれだけいるでしょうか?


 今、マスコミまでもが言いたいことを言えないような風潮になってきている。マスコミにはどうか踏ん張ってもらいたい。
 まだ間に合うと思うのです。
 そして私たち一人一人が想像力をもって、いま行われていること、報道されていることについて自分自身で考えることが何よりも大切なのではと思います。


 子供たちにも、自分で考えることを身につけてもらいたい。例えば学校などでのいじめ。生徒たちも教師もいじめられている人の立場になったつもりで少しの間目を閉じて想像してみてください。その悲しみが少しは感じ取れるでしょうか?強いものに迎合するだけの集団は、子供の世界も大人の世界も、その先は自滅しかありません。


 そうならないためにまず、私たち大人が「考える人」できれば「行動できる人」にならなければと、自戒をこめて微力ながら発信します。







 


 

2015年1月6日火曜日

考えることの大切さ①


新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 
今年は、今までにない新しいかたちの講座「サイマス研究倶楽部」を、6年後の大学入試改革を見据えて力を入れていきたいと思っております。もちろん理科実験、ロボットプログラミングも今まで以上に充実したものへ進化させていく所存です。また、個人的には発足したばかりの「科学教育のこれからを考える会」を真剣に科学教育について語り合える場にできたらと思っています。いろいろな立場の方に参加していただきたいなあと思っております。少しでもご興味をもっていただけましたら、是非お気軽にお問い合わせください。
 

さて、2015年最初のブログでは、私どもが日ごろから謳っております「考える力」の大切さ、これがなぜ必要なのかについて私なりの考えを述べさせていただきます。


「空気感」これは最近私のなかで自然に生まれ、存在感を大きくしている言葉です。一時「KY」という言葉が流行りました。ネーミングのセンスにもそうですが、「空気読めない」ということが流行語になることに首をかしげたくなりました。最近若者、いや大人も子供も周りに同調し、自分が突出しないことにやけに気を使っているように思えます。本来空気を読むとは、優しさ、他人をおもんぱかって言動するということではなかったでしょうか?それが今、空気を読む、はその良し悪しよりも多数派に同調することになってはいないでしょうか?
 
こんな新聞記事があります。
文化人類学者の上田紀行さんが、今の若者たちについて「人間は使い捨て」「他人の苦しみより自分の保身」という考
え方に衝撃を受け、危機感を持って取り組む決意を書かれていました。自分が勤めている海外の工場の有毒な排水が原因で、下流の住民に死者も出ている。工場は隠ぺいしろと社員に命じている状況。あなたならどうしますか?と自身の教え子200人を前に質問したところ、内部告発やリークする、などの何かしらの行動を起こす人はたったの18人。180人は「何もしない」だったのです。筆者が「人が死んでいるんだよ!?」と聞き直しても顔を見合わせて「何もするわけないよな」とうなずき合っていたというのです。私自身もその記事を読んで衝撃を受けました。

私はこの話で、正義感とかモラルとかの問題は当然、また「空気感」という言葉が浮かびました。確かにわざわざ自分がリスクを冒して行動するより保身に走る若者が多くなっているというのも、そうかもしれないと思います。しかし、それ以上にその教室の雰囲気が彼らにそのような選択をさせたようにも思うのです。内心では「何か行動したい」と思っていても、大多数の生徒が「何もしない」なかで手を上げることはその場の空気を乱すようで恥ずかしく、KYなのでは・・と考え多数派に同調してしまう。

 
クラスで強いグループが一人の子をターゲットに無視をし始める。するとクラス中がその子を無視し始める。中には本当は無視なんかしたくないと思っている子もいるかもしれない。でもクラスの空気がそうなっているので同調する。ここでは無視されている子の気持ちなどには考えは及ばない。むしろ自分が浮いて目をつけられるのが怖い、考えているとすればそんなことでしょう。
こんなことは、学校や会社などで日常茶飯的に行われ、教師も上司も見て見ぬふり。要は同じ論理です。情けないことです。

 
こんなことがありました。
路上生活者かな?と思われる人が街中で倒れていても、誰一人声もかけず、歩きながら見ている人も結局は素通りし
ていきます。街で一番人通りが多い場所ですよ。私は見ていられなくて、その人に声を掛け起こしてあげました。幸い
大丈夫のようだったので私はその場を去ろうとしましたが、そうすると2,3人の女性が大丈夫ですか?と声を掛けに来ました。
これが、きれいな服装の人ならどうなるでしょうか?すぐに助ける人がわんさか集まると思いますが・・・。
誰も助けないから自分もしない。
皆がしているから自分も・・人を助ける場面でもこの心理が働く場合があるのですね。

 
東日本大震災では多くの人たちが遠方から駆けつけ、ボランティア活動に参加して地域の人々を手助けして
いる多くの若者がいる一方で、身近にこんなこともあるのです。

 
「空気感」を大事にする傾向は、だんだん顕著になっているような気がします。強いものが黒だと言えば、すぐさま同調するものが現れる。その声がどんどん大きくなれば、本当は白だと思っていても自分も黒だと言ってしまう。そのうち本当に黒だと思い始めてしまう・・。もはや思考停止です。
こういったことは、クラスや会社、地域や国単位でも起こってしまう。正義やモラルよりも周りに同調することが正しい選択だと思っている人々が多くなれば、危うい未来は想像に難くありません。人は考えるからこそ人であり、自分自身で考えることをやめている、もしくはできない人が増えている現実があるからこそ、わたしはあえて「自分で考えること」にこだわるのです。考えて、そして行動できたら最高ですが、その前にまずは「考えよう!」と子供たちに呼びかけていきたいのです。

2014年12月24日水曜日

大学入試改革について②

22日、中教審は文科省に対し大学入試改革案を答申しました。内容は前回のブログの通り。

改革の方向性には大賛成であるし、私どもの提供させていただいているコンテンツはまさに問題解決力や知識を活用する力が必要であるとの思いから作り出したものですので、そういう意味では6年後にはぜひ実現してほしいと思っています。

「理科と社会は暗記科目ですので、まあいいとして」と、どこかの塾の説明会で若い女の先生がこの2科目について一言で終えていたのを思い出します。理科についてはいまさら申し上げるまでもありませんが、全く違います。折しも昨日のニュースで高校の歴史の指導方法について、暗記一辺倒から、全体の流れや背景などどうしてそのようになったのか、などもっと深い勉強へと移行しそうだと報じていました。その分ずっと増え続けてきた用語や年号は減らすのだそうです。

全くその通りだと思います。難しい用語や年号をひたすら覚える勉強ほど無意味なものはありません。歴史にもその背景には物語があり、それらを小説やドラマなどでみると生き生きとしたもであり面白いなあ、と感じます。そこまで装飾しなくとも、その背景や当時の情勢などを深く知ることは、歴史の勉強においてとても重要なことであり、これがまさに「考える力」をつける大前提ではないでしょうか?「歴史から学ぶと」といいますが、用語や年号を覚えただけでどうやって学び活かすことができるでしょう?

さて、大学入試改革に話を戻します。

そのような方向性は大歓迎であるのですが、本当に答申にあるようなことが実現できるのか・・少し心配な面もあります。

まず、記述式が増えること、ですがそれ自体はマークシートのみのセンター試験に比べるととても良いと思いますが、少子化の方向にあるとはいえ、何十万人と受けるであろう「大学入学希望者評価テスト」の記述の採点者がそれだけ多く確保できるのか、また、採点基準などあいまいな部分はどうするのか・・。このテストは高校時代に年に複数回受けられるようなのでさらに大変であろうと想像できます。

そして、次の段階である大学ごとの入学試験ですが、答申では小論文や面接を重視し、主体的に学ぶ姿勢や問題を発見し解決する力を評価し選抜する、となっています。「今までの価値観とは全く違った入試になる」とは中教審会長。

そうすると先ほどの歴史もそうですが、学校での教育のかたちが大きく変わってこそ実現できる内容であるため、期待するところでありますが、一方いわゆる「塾」業界のありかたも大きく変容するのでしょうか?

おそらくは、「小論文コース」だのディベート術などを教える「リーダー育成コース」だの、があちこちで登場するのではと思われますが、それらが「対策・スキルアップ」に過ぎないものであるのなら、本来の目的からは外れてしまい、さながら「就活のための対策講座」みたいになり、どの受験生も同じような内容の論文ばかり・・、面接しても判で押したように同じような優等生的な答えが返ってくる・・。集団討論では就活よろしく「調整役にまわるのが得策」とか・・。

これでは、意味がありませんよね。

ちゃんとした大学なら小手先のノウハウでもって対策が打てるような出題の仕方はしないであろうし、面接官もその辺は見抜いてくださることを願うところです。就活だって対策マニュアル通りにやってもうまくいかないのは、何も深く考えずにマニュアル通りにやっているからで、中身が見えないからなのに、それに気付かない。

今度の大学入試改革でも、それらの懸念材料をきちんと解決できる制度設計をしっかりやっていただき、「ゆとり教育(私はこれには反対ではありませんでした)」がすぐに終わってまた元に戻ってしまったように、また数年後には元に戻しましょう、などとならないことを祈るばかりです。

2014年11月30日日曜日

大学入試改革について①


大学入試が大きく変わろうとしています。


大学入学者選抜について抜本的見直しを進めている中央教育審議会の答申素案によると、6年後から、まずセンター試験が無くなり「大学入学者学力評価テスト(仮称)」というものに変わるということです。これは30代・40代の方ならご存知の共通一次試験からセンター試験への移行とは比べ物にならないような、根本的なところからの改革と言っていいと思います。


まず、センター試験のように教科ごとのマークシート方式だけではなく、教科の枠組みを超えた、合教科・総合型問題で記述式が登場します。将来的に教科型は廃止するということです。そしてセンター試験が一発勝負だったのに対し、年に複数回受けられるということです。

つまり、教科ごとに1点刻みの偏差値受験ではなくなるということなのです。

さらに、各大学の個別入学試験では、受験性を「多面的に判断すること」を重要視し、面接・小論文・集団討論などを実施し、部活動や課外活動等の記録も考慮するというものになりそうです。学力を測る場合も「記述式」「論述式」にするよう求めています。う


こうして見ると、ある方向性が見えてくると思うのですが、どうでしょうか?つまり、受験のための詰め込みの勉強では測れない力を試したい、受験生の考える力・問題解決能力・創造力などを重視する、ということです。パターン化された今までの受験勉強という訓練では太刀打ちできないものが問われるということです。もちろん一定の学力は前提ですが。


そう考えると手前味噌ですが、当スクールが開校当初から謳っていた「考える力」「問題解決能力」、これらは暗記だけでは絶対に身に付くものではなく、実際の実験を通して検証し、考えてこそ長い時間をかけて培われてゆくものです。ロボットプログラミング講座もまた、プログラミングだけでなく作る作業もしますので、どうセンサをつけ、どうプログラミングするかを考え課題解決してゆきます。さらに、四日市校で今秋から始まったサイマス研究倶楽部もまさに、合教科の問題解決能力を鍛える講座であり、これからの時代を先取りした講座であると自負しています。


当スクールは「考える力」「問題解決能力」を養うための各種コースを来年度はより強化し、子供たちが将来に役立つ力を身につけられるようにしたいと考えております。ご期待ください!


2014年11月20日木曜日

2つの嫌いな言葉

解散発表で安倍総理はやはり「消費税解散」を強調していましたね。そこにだけ目を向けさせたいのでしょうが、ここまで国民をバカにしたやり方は、怒りを通り越して悲しくなります。

このままでは野党がバラバラだし、選挙に行っても無駄だと思われている方も多いと思いますが、そこがまた安倍さんの狙うところ。投票率が低くなればなるほど自民党や公明党といった組織票を持つ政党が強くなるので、ここは消費税だけではなく、アベノミクス・集団的自衛権・特定秘密保護法・原発再稼働等々、各々が重視する事柄などを中心に考え「このまま安倍さんでいいのか?」を判断する選挙にしなければと思っています。

選挙に行きましょう!!

こんなことを言っている私も、若いころは全く政治や社会の問題など関心がなく、選挙もあまり行っていませんでした。
やはり子供を持つようになり、こういう仕事をさせてもらっていることもあって、今の日本だけでなく将来の日本というものを考えるようになりました。
もっと言えば日本だけでなく、世界を考えられるようになればよいのですが・・・。

私が一番嫌いなことの一つに、TVの街頭インタビューで「誰がやっても一緒!」と冷やかにコメントしている人が多いですが、そういう人たちを見ると「何も考えていないのだな・・」と嫌な気持ちになってしまいます。政治が国民に見放された、といえば確かにそうなのかもしれませんが、「誰がやっても同じ」ということは絶対にない!と私は思います。それはどんな事柄でもそうだと信じます。

ただ危険なのは、混沌とした中に颯爽と救世主のごとく登場したカリスマ性のあるリーダーに熱狂してしまう・・・なんてことも、これこそ危険です。

別になんでもシニカルに考えるタイプではありませんが、「無関心」と「熱狂」という対極にある二つの言葉が、どちらも私は嫌いです。