2015年1月6日火曜日

考えることの大切さ①


新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 
今年は、今までにない新しいかたちの講座「サイマス研究倶楽部」を、6年後の大学入試改革を見据えて力を入れていきたいと思っております。もちろん理科実験、ロボットプログラミングも今まで以上に充実したものへ進化させていく所存です。また、個人的には発足したばかりの「科学教育のこれからを考える会」を真剣に科学教育について語り合える場にできたらと思っています。いろいろな立場の方に参加していただきたいなあと思っております。少しでもご興味をもっていただけましたら、是非お気軽にお問い合わせください。
 

さて、2015年最初のブログでは、私どもが日ごろから謳っております「考える力」の大切さ、これがなぜ必要なのかについて私なりの考えを述べさせていただきます。


「空気感」これは最近私のなかで自然に生まれ、存在感を大きくしている言葉です。一時「KY」という言葉が流行りました。ネーミングのセンスにもそうですが、「空気読めない」ということが流行語になることに首をかしげたくなりました。最近若者、いや大人も子供も周りに同調し、自分が突出しないことにやけに気を使っているように思えます。本来空気を読むとは、優しさ、他人をおもんぱかって言動するということではなかったでしょうか?それが今、空気を読む、はその良し悪しよりも多数派に同調することになってはいないでしょうか?
 
こんな新聞記事があります。
文化人類学者の上田紀行さんが、今の若者たちについて「人間は使い捨て」「他人の苦しみより自分の保身」という考
え方に衝撃を受け、危機感を持って取り組む決意を書かれていました。自分が勤めている海外の工場の有毒な排水が原因で、下流の住民に死者も出ている。工場は隠ぺいしろと社員に命じている状況。あなたならどうしますか?と自身の教え子200人を前に質問したところ、内部告発やリークする、などの何かしらの行動を起こす人はたったの18人。180人は「何もしない」だったのです。筆者が「人が死んでいるんだよ!?」と聞き直しても顔を見合わせて「何もするわけないよな」とうなずき合っていたというのです。私自身もその記事を読んで衝撃を受けました。

私はこの話で、正義感とかモラルとかの問題は当然、また「空気感」という言葉が浮かびました。確かにわざわざ自分がリスクを冒して行動するより保身に走る若者が多くなっているというのも、そうかもしれないと思います。しかし、それ以上にその教室の雰囲気が彼らにそのような選択をさせたようにも思うのです。内心では「何か行動したい」と思っていても、大多数の生徒が「何もしない」なかで手を上げることはその場の空気を乱すようで恥ずかしく、KYなのでは・・と考え多数派に同調してしまう。

 
クラスで強いグループが一人の子をターゲットに無視をし始める。するとクラス中がその子を無視し始める。中には本当は無視なんかしたくないと思っている子もいるかもしれない。でもクラスの空気がそうなっているので同調する。ここでは無視されている子の気持ちなどには考えは及ばない。むしろ自分が浮いて目をつけられるのが怖い、考えているとすればそんなことでしょう。
こんなことは、学校や会社などで日常茶飯的に行われ、教師も上司も見て見ぬふり。要は同じ論理です。情けないことです。

 
こんなことがありました。
路上生活者かな?と思われる人が街中で倒れていても、誰一人声もかけず、歩きながら見ている人も結局は素通りし
ていきます。街で一番人通りが多い場所ですよ。私は見ていられなくて、その人に声を掛け起こしてあげました。幸い
大丈夫のようだったので私はその場を去ろうとしましたが、そうすると2,3人の女性が大丈夫ですか?と声を掛けに来ました。
これが、きれいな服装の人ならどうなるでしょうか?すぐに助ける人がわんさか集まると思いますが・・・。
誰も助けないから自分もしない。
皆がしているから自分も・・人を助ける場面でもこの心理が働く場合があるのですね。

 
東日本大震災では多くの人たちが遠方から駆けつけ、ボランティア活動に参加して地域の人々を手助けして
いる多くの若者がいる一方で、身近にこんなこともあるのです。

 
「空気感」を大事にする傾向は、だんだん顕著になっているような気がします。強いものが黒だと言えば、すぐさま同調するものが現れる。その声がどんどん大きくなれば、本当は白だと思っていても自分も黒だと言ってしまう。そのうち本当に黒だと思い始めてしまう・・。もはや思考停止です。
こういったことは、クラスや会社、地域や国単位でも起こってしまう。正義やモラルよりも周りに同調することが正しい選択だと思っている人々が多くなれば、危うい未来は想像に難くありません。人は考えるからこそ人であり、自分自身で考えることをやめている、もしくはできない人が増えている現実があるからこそ、わたしはあえて「自分で考えること」にこだわるのです。考えて、そして行動できたら最高ですが、その前にまずは「考えよう!」と子供たちに呼びかけていきたいのです。

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